ピーター・ウィリッツ・バーンサイド(Peter Willits "Pete" Burnside、1930年7月2日 - 2022年8月26日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州クック郡エバンストン出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴
ダートマス大学卒業後、ニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)に入団。1955年に同球団でメジャーデビュー。1956年はMLBでの登板は無く、1957年に再びメジャーリーグでの登板機会を得る。1959年から、デトロイト・タイガースに移籍する。この年から、メジャーリーグでの登板機会が増えるようになる。エクスパンション・ドラフトによって、1960年12月にワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)に移籍する。
1962年末にFAとなり、ボルチモア・オリオールズに移籍する。しかし、1963年5月9日にオリオールズから解雇され、5月24日にワシントン・セネタースと契約して復帰する。1959年から1963年までは、毎年30試合以上メジャーリーグで登板していた。
1964年1月31日にセネタースから阪神タイガースに入団。2月16日に来日。入団時の背番号は72だったが、その後32に変更。
1年目は、防御率3点台前半であったが5勝に終わる。南海との日本シリーズでは第5戦に先発し、6回まで無失点と好投。7回に集中打を浴び3点を失うが、渡辺省三とジーン・バッキーが後続を抑え勝利投手になる。翌1965年は防御率は2点台後半と改善するも前年と同じく5勝に留まり14敗を喫した。シーズンオフに球団から残留を要請されたが、家族が帰国を望んでいたこともあり10月30日に退団が発表された。その後、引退しダートマス大学へ復学し修士課程を学んだ。
投球スタイル・人物
左のサイドスローからの切れのよいカーブが武器の投手だった。他にナックルやスライダー、シュート、スクリューボールも使用していた。また、四球が少なく使いやすい投手でもあった。
日本球界では防御率は1964年が3.36、1965年には2.91を記録し、WHIPは双方とも1.13と安定していたが、打線の援護に恵まれず、日本球界に在籍した2年間で1年に5勝ずつしかできず、2年目の1965年には14敗を喫している。
1961年にロジャー・マリスは左腕からは12本塁打しか打っていないが、そのうち3本塁打はバーンサイドが献上している。一方、王貞治とは相性が良く、2年間で一度も本塁打を打たれなかった。王と50打席以上対戦した投手72人の中で本塁打を打たれなかったのはバーンサイドを含め3人だけである。
詳細情報
年度別投手成績
- 「-」は記録なし
- NYG(ニューヨーク・ジャイアンツ)は、1958年にSF(サンフランシスコ・ジャイアンツ)に球団名を変更
記録
- NPB
- 初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利・初完投:1964年3月24日、対読売ジャイアンツ1回戦(後楽園球場)、9回1失点
- 初完封:1964年8月5日、対広島カープ22回戦(広島市民球場)
背番号
- 39(1955年)
- 35(1957年 - 1958年)
- 19(1959年 - 1960年)
- 16(1961年 - 1962年)
- 20(1963年 - 同年途中)
- 18(1963年途中 - 同年終了)
- 72(1964年 - 同年途中)
- 32(1964年途中 - 1965年)
脚注
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 B
- 阪神タイガースの選手一覧
- 北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国
- イリノイ州出身の人物一覧
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)

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