植松 賞雅(うえまつ たかまさ)は、江戸時代中期の公卿・華道家。官位は権中納言、参議、右近衛中将、従二位。中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五代にわたって仕えた。

華道家としては松月堂古流の継承者として知られる。

経歴

宝永2年(1705年)、岩倉乗具の三男として生まれた。京都の岩倉邸で生まれた。母は家女房。初名は具金。

正徳3年(1713年)に叙爵。享保5年(1720年)に当時子がなかった宮内卿・植松雅孝の養子に入った。植松家は岩倉家の分家千種家のそのまた分家にあたる。享保6年(1721年)に元服し、植松家の通し字「雅」を使った「賞雅」と改名。その後、右近衛権少将や右近衛権中将を経て元文3年(1736年)に従三位となり、公卿に列した。

延享4年(1747年)正三位に昇進。宝暦4年(1754年)に参議。宝暦7年(1757年)に従二位となり、明和5年(1768年)に権中納言となっている。

なお、養父・雅孝には賞雅の養子入り後に実子・幸雅が生まれていた。そのため、賞雅には実子がいながらも幸雅を養子に迎えて後を継がせている。賞雅の実子二人は実家岩倉家の養子に入っている(岩倉尚具・岩倉広雅)。

天明5年(1785年)10月26日、死去。81歳。

華道家としても事績を残した。是心軒一露に師事して華道を学び、五大坊の花号をもらっている。一露の第一の高弟として知られ、一露が創設した華道の流派「松月堂古流」は、賞雅が継承して以降、植松家が代々継承し、京都や付近の諸国の寺社に広められていくことになる。晩年に花号を和光庵卜友に譲っている。

系譜

  • 父:岩倉乗具
  • 母:家女房
  • 兄弟:岩倉恒具、千種有敬、賞雅
  • 養父:植松雅孝
  • 妻:不詳
  • 家女房
    • 男子:岩倉尚具 - 岩倉恒具の養子
    • 男子:岩倉広雅 - 兄・岩倉尚具の養子
  • 養子
    • 男子:植松幸雅 - 養父・植松雅孝の子

脚注

参考文献

  • 今井堯ほか 編『日本史総覧』 補巻《中世三・近世三》、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年11月15日。NDLJP:12192955。 (要登録)
  • 坂本武雄 編『公卿辞典』七丈書院、1944年10月5日。NDLJP:1123765。 (要登録)

外部リンク

  • 『植松賞雅』 - コトバンク

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