山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として第36代孝徳天皇の陵に治定されている。
概要
大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、二上山から西方に派生する丘陵の先端部に築造された古墳である。丘陵前には竹内街道が通る。江戸時代には「北山陵」と称されたほか、かつては「鶯陵(うぐいすのみささぎ)」とも称され、『河内名所図会』では『枕草子』の「うぐひすのみささぎ」を本古墳に比定する。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていない。
墳形は円形で、南西方に面する。墳丘は直径32メートルを測り、小規模な円墳になる。埋葬施設などは明らかでない。関連出土品として、かつて陪塚から出土したという海獣葡萄鏡が知られるが、その出土地の詳細は明らかでない(現在では陪塚等は知られない)。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第36代孝徳天皇(654年崩御)の陵に治定されている。7世紀の王陵としては懐疑的な見解もある一方、その小さい墳丘規模に生前の薄葬令の反映を推測する説もある。磯長谷では孝徳天皇陵のほか敏達・用明・推古天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。
被葬者
山田上ノ山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第36代孝徳天皇の陵に治定している。孝徳天皇について、『日本書紀』では白雉5年(654年)10月に崩御し、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。『延喜式』諸陵寮では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。
脚注
注釈
原典
出典
参考文献
- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- 関晃 「孝徳天皇」、石田茂輔 「大阪磯長陵」(孝徳天皇項目内)。
- 「上ノ山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』平凡社、1986年。ISBN 458249028X。
- 「孝徳天皇陵」『王陵の谷・磯長谷古墳群 -太子町の古墳墓-』太子町教育委員会(太子町立竹内街道歴史資料館)、1994年、21-22頁。
関連項目
- 孝徳天皇
外部リンク
- 河内磯長中尾陵 - 宮内庁
- 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳) - 太子町ホームページ




